早川電機工業 白黒テレビ 1953年-


映像のはじまりはモノクロ
当時白黒とよばれた

 1930年代からテレビの基礎研究をしていた早川電機工業・シャープは、戦争中に培った航空無線機の超短波技術を活かして1951年にテレビの試作機を完成させていた。そして1952年には日本ではじめてアメリカのRCAと基本特許契約を締結。

 NHKのテレビ本放送よりも早く、国産量産第一号機を1953年に世のおくりだしていた。国産初の量産14型テレビは17万5千円、当時の公務員初任給が5千円だったというから、35倍、高嶺の花だった。1950年代後半には、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が『三種の神器』と呼ばれた。

高校野球は今でも人気ある動画映像コンテンツのひとつだ

 白黒テレビが発売された1953年8月夏には甲子園から高校野球が実況中継された。1954年には早川電機は14インチで10万円以下の白黒テレビを発売し購入しやすい状況づくりをしていく。そして1964年東京オリンピック開催で、映像文化が急速に広がって行く。おどろくのは街頭テレビなる文化があり、いまで考えれば小さな画面にたくさんの人が一喜一憂したのだから驚く。

1950年代トラックの荷台に置かれた街頭テレビを見る人たち


Olympic Year
New Model

 テレビやカメラ業界ではオリンピックの年に画期的な新製品がでるという。それはOlympicイヤーが、機器販売のおおきな波になったから。2020年の東京オリンピックで、どんな商品が私たちの生活を変えてくれるのだろう。

国産量産第一号機の白黒テレビTV3-14Tは,14インチ価格 175,000 円


 オリンピック自体がいまでは商品になってしまった感覚があるが。そのイベントを撮るためにカメラの性能が進化し、そのカメラが撮った映像を観るために受像機が進化する。そしてそれをとりまくシステムが変わって行く。そして文化が生まれる。

 1953年当時はチャンネル3がNHK、チャンネル4が民間放送第一号の日本テレビ、他のチャンネルは占領軍・アメリカ軍のもの。正力松太郎氏率いる日テレから最初にながれた記念すべきテレビCM第一号は「セイコーの正午の時報」。そして街頭テレビの主役は、力道山率いる日本プロレスリング協会のプロレス中継。

 黒いタイツで空手チョップは強い男の象徴だった時代。それに敏感に反応するのはいつの時代も子ども。空手チョップのプロレスごっこで命をおとす児童もあらわれて、力道山は何度もテレビでまねをしないようにと呼びかけていたと言います。


ブラウン管テレビから
スマホの画面へ

 ブラウン管テレビがもうほとんど見られなくなった現在。当時は「ブラウン管」がテレビ名称だったことがあるほどだったのに使われない言葉に。ブラウン管が液晶テレビに変わり、そしてテレビという言葉も死語に。

 2000年頃からプラズマディスプレイが急速に増えて来て、今では完全に液晶ディスプレイへと。当初、生産コストが高かった液晶テレビも、プラズマディスプレイを追い越しました。2005年8月にシャープが世界最大65インチ液晶テレビを発売。時代は液晶テレビが主流に。2008年には液晶ディスプレイの世界出荷台数が1億641万台とブラウン管テレビ8,643万台を抜き世界スタンダードも液晶へ。

 今ではスマホディスプレイの方が通りがいい時代。インターネットを見たり、ユーチューブ動画、自分のiPhoneやタブレット端末で撮影した動画を観ることが主流になり、他人と映像を共有して観るなんてことが少なくなった時代とも言える。

2001年のソルトレイクオリンピックの年に発売されたシャープの液晶テレビ、ブランド名AQUOSは世界の亀山モデルと言われて大ヒットした

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